おやじ→忘却→神 おやじ→忘却→神

おやじ→忘却→神

Old man → Forget → God

ストーリー
    もしも降る雨が私の大脳皮質に滲みこんで記憶を腐らせてくれていたら。
この土地へ単身で越してきてもう二十五年になる。週休一日で管理人のアルバイトをしながら生活をしている。唯一の自慢は、何か大きいものを購入する予定があるわけではないが無趣味なおかげで着々と貯金が増えていることであろうか。今の生活に満足もしていなければ不満でもない。何か改善してみようとは特に考えていないが、すれ違う人々から漂う充実感というものがあまり好きではない。
    私はいつも通りの手順で準備を整え仕事場へ向かった。ほとんど変化のない青紫の映像を見ながら「異常なし」と指差し確認をしていった。私の仕事はざっとこんなものである。人間は無意識に自分の行動に意味を見出そうと一生懸命になる。私もその一人であった。
    仕事を終えぼんやりと電車に揺られていた。車内の明るい照明の下で見ると履いているズボンが毛玉や滲みだらけであることに気がつき小さくため息を漏らした。二駅行った所で何か堪らない欲求を感じネオンが多い駅を選んで途中下車した。電車に乗る前とは違う空気を味わいながら意気揚々と街を歩いた。通る店通る店が満面の笑みで声をかけてきた。私は勢いに任せて適当な店に入った。席に着くや否やテーブルセットが着々と用意され隣では露出度が高く香水臭い女が水割りを作っていた。不安と後悔の念が湧き上がったが出来上がった水割りを一気に飲み干しその気持ちは知らぬ間にどこかに吹き飛んでいった。
    寒気を感じ微かに目を覚ました。コンクリートの凹凸が頬に突き刺さって痛みを感じ寝返りをうった。せがまれてカラオケを歌った記憶と断片的な女たちの声援が微かに脳に響く中私は夢の世界へ溶けていった。
「そろそろ起きたら?」と台所に立つ妻が言った。「お父さん!おばあちゃんがチェンジグリフォンの人形買ってくれたんだ!」と幼い息子が駆け回っている。「今日も早く帰って来てね。」と若く美しい妻が振り返った所で夢から覚めた。  しまい込んで決して思い出さないようにしていた記憶が現実感を帯びてはっきりと蘇った。こらえきれない切なさに涙が溢れてきた。ひどい頭痛を感じ朦朧とした脳に自分の悲痛な鳴き声が響いていた。一生大切にすると約束した家族を捨ててここまで逃げてきた。一体何をやっているんだろう。後悔を繰り返し感情を分厚い沈黙で塗り固め、何も感じなくなっていた。それからはただ無表情に歩いているふりをしながら世の中をなんとなく過ごしてきた。
    そして私は立ち上がり、寄りかかっていたビルの壁に思いっきり拳をぶつけた。右手の痛みだけが鮮明でそれ以外は現実に感じられなかった。そして私は呆然としながらフラフラと歩き始めた。歩く人達が避けていくので自然に道が開けていた。突然現れた自転車を避けようと思い切り体をひねった拍子に私は左へ大きくよろめいた。ふらりと重力に従って倒れ、手を突くギリギリの所で足を踏ん張った。その感覚がなんとも心地よくて反対側へも同じように自力で倒れてみた。なんだか楽しくなってきてそんなふうに左右に大きく揺れながら歩きはじめた。今度は手を空に遊ばせながら揺れて歩いた。もはや周囲の視線などどうでもよかった。自分の体と意識だけがはっきりと存在していて他のものすべては消滅していた。急に走ってみたり回転してみたり、私はひたすら自分の体が出す欲求に従って動きまわった。
    自由に踊っていると細胞が振動し私の体は最小単位に分解された。その隙間に春の空気が入り込んで体は太陽に届くほどに肥大化した。同時に大脳皮質にこびり付いていた記憶が散り散りに消えていくのを感じた。そして私はようやく気がついた。忘れることができなかったのではなく、その覚悟が持てなっただけであったということに。
春の空気に溶けた私はすべてを忘却し、生をも望まず死をも欲さない境地にようやくに辿り着いた。


The tale of the man who threw away the past and became freedom, and Modern society indifferent to others is expressed.

出演者、制作協力
淡水、音動-ondo-、集合住宅、村上悦代、池田高広、Carter、きょん。、クリタマキ、新開麻、Jill、中村博司、megraca Tanu、スナックその
撮影協力 長谷川朋也

おやじ→忘却→神